ホーム  >  館長ブログ  >  昭和のはじめ、開襟シャツは高槻から発信された?其の二 - 開襟シャツと大阪医科大学 -

昭和のはじめ、開襟シャツは高槻から発信された?其の二 - 開襟シャツと大阪医科大学 -

2015年05月11日

 開襟シャツに関しては戸田博士が発明/改良したと記されていますが、何を元に発明/改良したかは明らかではありません。藤本守博士(大阪医科大学元学長)は、西洋衣服由来説を以下のように唱えています。オーストリア・チロル地方に留学していた久野寧博士(名古屋帝国大学名誉教授)が、同地方の男性が着用していた夏衣を持ち帰り、同博士が満州医大に勤めていた頃に愛用していたところ、訪満した戸田博士がこれに着目し、本土に持ち帰って改良して戸田式開襟シャツを生み出し、啓発活動を行った。

 

 また、緒方洪平博士(京都府立医科大学名誉教授)は、『「開襟シャツ」について、私は、直接、先生から何事も承っていない。』としつつ、『恐らく、南方地域の着衣習慣から、思いつかれたものであろうが、その経緯については、一言も、仰有ってくださらなかったまた、こちらもお訊ねしなかった。唯一言、「君もこれを着てみたまえ。涼しいぜ」と仰有つただけである。』と南方衣服由来説を示唆されています。洋服が日本古来の衣服ではないことから容易に想像できるとおり、襟を開いて着るシャツは日本古来のものではありませんが、襟を開いているところは日本の着物に通じるものを感じます。似通ったシャツにはヨーロッパのパラカシャツ、ハワイのアロハシャツ、インドネシアのバティックシャツなど、暑さを和らげる工夫をしたものが各地に見られ、それらとの関係から日本の開襟シャツの由来を明らかにすることは、服飾の専門家でない私には重荷です。しかし、そのような私にも容易に理解できるのは、戸田博士が開襟シャツを改良したこともさることながら、改良した開襟シャツを夏の正装として日本全国にひろめた実学者としての業績が大きいということです。私もつまらぬ発明をして特許などを頂き、商品化したこともありますが、売れた試しがない。衛生学者である戸田博士は、科学的根拠と文化的な背景を説明しながら、各地で講演を行い、その普及に努められたようで、その熱意と行動力そしてそれらを有効ならしめる人柄に敬服するところです。

 

 

      

  

 戸田博士が大阪高等医学専門学校の校長に就任された翌月、昭和7年7月に大阪朝日新聞が大阪朝日会館で開催した講演会における「胸襟を開け」と題した戸田博士の講演文字起しが、1962年発刊の専門誌「國民衛生」第30巻3-4号9-14頁に残されています。各国の文化の違いと服装の歴史を説明しながら、人々がなぜ襟を詰めた服を着るようになったのかを明らかにし、日本の気候風土における功罪を論じ、戸田式開襟シャツを推奨しています。その論理性とユーモアにあふれる講演内容は、博士のお人柄と相まって、戸田式開襟シャツを全国のスタンダードに押し上げるには十分なものであったと感じます。

 

 話は逸れますが、戸田博士のお人柄は、大阪医科大学の認可にも大きく影響しています。昭和2年に設置認可が下りた財団法人大阪高等医学専門学校が、通常の医育機関が4年制であった時代に、日本初の5年制医育機関を開設する際、教員人事に関して設立者吉津度(よしづわたる、政友会代議士)氏は戸田博士の助けを借りました。後に、大阪高等医学専門学校の開設と同時に着任した里見三男博士(細菌学)は、「当時の高槻高医、今の大阪医科大学創立の基礎を立てた者は戸田博士をもって第1人者とするものである。」と書き残しているほどに、戸田博士はそのお人柄に支えられた調整能力をもった方であったものと考えられます。

 

      

 

 その後、草創期の艱難辛苦を乗り越えた吉津理事長と初代足立文太郎校長が辞任したあと、昭和7年(1932年)に藤堂謙三氏が第2代理事長に就任されると同時に、戸田博士は京都帝国大学医学部長を兼務する形で大阪高等医学専門学校校長に就任され、同高等医学専門学校の大学化に向けた準備に取り掛かり、10年の歳月を費やして、大学化へのおおよその目途をつけられたようです。このことは井上硬博士(京都大学名誉教授)が「國民衛生」第30巻3-4号57-58頁に記した追悼文が語るところです。かくして、戸田博士は、資源確保を目的のひとつとする太平洋戦争が勃発した翌年、昭和16年(1941年)に高等医学専門学校の大学化のおおよその目途をつけて退任されました。跡を継いだ第3代校長松本信一博士の支援のもと藤堂氏は旧制大阪医科大学の設置認可申請を行い、戦後、昭和21年(1946年)に旧制大阪医科大学の設置が認可されました。

 

 先哲と並べるのは心苦しいですが、私も専門学校の校長と大学教授を兼務し、本学の看護専門学校を廃止して大学看護学部や大学院看護学研究科を設置する事業に携わりました。この事業を遂行する過程で、高等医学専門学校から大学への移行について、勉強させていただき、戦中戦後の混乱期にあっても日本の高等教育の充実に奮闘された方々がおられたことを知りました。その先人たちは教育の充実発展のために労を惜しまず、そこには功名心のかけらも持たず、大学開設の目途をつけて校長を退任された戸田先生の行動は、深く歴史に刻まなければならないと思うのです。

 

 以上、大阪府高槻市にある大阪医科大学の前身である大阪高等医学専門学校の第2代校長戸田正三博士が戸田式開襟シャツを創意工夫して夏の正装として全国に広められ、その開襟シャツはエアコンが普及するまで日本の一般社会に残りました。博士は高槻における医育機関の産み育ての親のお一人であることから、私は日本のクールビズ対応の服装の原形である開襟シャツの心は、高槻発であると言っても過言ではないと、多少の無理を承知で説いているところです。開襟シャツが教えてくれるものは「独創的に発想し、論理的に考え、実用化し、一般常識の抵抗に屈することなく広める」ことの大切さなのかもしれません。

 

 最後に、博士の時代とは異なる形で現れたエネルギー問題を念頭に、戸田博士のかの講演の締めくくりの言葉を添え、皆様と一緒にクールビズを見つめ直して「省エネを旨に、独創的な発想で夏を少しでも快適に過ごすことによって健康を守り仕事を効率化する」ように心掛けたいものです。 「・・・労働者でも又事務を執られる方々でも、都会の複雑した事務がだんだんふえて来ました今日よく胸襟を開いて、頸を開放するということに特別の注意を払わなければならぬと思うのであります。(戸田正三)」

                           (佐野浩一、平成23年夏筆企 平成27年春筆了)

 

戸田正三先生 略歴

1885年 (明治18年) 兵庫県朝来郡に生れる

1903年 (明治36年) 豊岡中学校を経て第七高等学校造士館に入学

1906年 (明治39年) 京都帝国大学 医科大学に入学

1910年 (明治43年) 同 卒業 京都帝国大学 医化学教室 荒木寅三郎教授に師事

1914年 (大正 3年)  独英仏に留学、上水塩素消毒法を確立 京都帝国大学 助教授

1916年 (大正 5年)   米国留学を経て、京都帝国大学 教授(衛生学担当)

1920年 (大正 9年) 教授(微生物学担当)兼務

1925年 (大正14年) 東京市役所保健局長

1932年 (昭和 7年) 4月 京都帝国大学 医学部長 就任

                6月 大阪高等医学専門学校 校長 就任

                7月 大阪朝日会館にて講演「胸襟を開け」

1936年 (昭和11年) 京都帝国大学 医学部長 退任

1942年 (昭和17年) 大阪高等医学専門学校 校長 退任

1945年 (昭和20年) 日本医療団 総裁 就任

1949年 (昭和24年) 金沢大学 学長 就任

1961年 (昭和36年) 9月 同退任

                                 11月 逝去

 

 

 

追記(アロハシャツとの関係)

 因みに、ハワイの正装として認められている「アロハシャツ」の起源は、日本人移民が和服の生地を使ってパカラパラカシャツを作ったことに由来するという説や特注の柄物シャツに由来するという説など、さまざまな説があります。パカラパラカシャツというのは、西洋の船乗りが来ていたフロックコートを現地の気候に合わせ作業着としたものだそうです。アロハシャツは基本的に熱帯気候に適した衣服としてパカラパラカ シャツから発展したもので、戸田博士が戸田式開襟シャツを夏の正装として日本中に広めた同じころに生まれたとされています。

 開襟シャツの販売が始まったのは、昭和5年(1930年)京都大丸と丹心マート(京都駅前の丸物百貨店の前身・千本今出川・西陣警察署の土地にあった)であったと記載されています。その後、博士自身による啓発活動が実り、昭和8年頃(1933年)には日本の夏の正装となっていたようです。

 一方、東京都出身の宮本長太郎が1904年にハワイに開いたムサシヤに、柄鮮やかな浴衣地のシャツの初注文があったのが、昭和8年(1933年)のことであったそうで、文書として「アロハシャツ」という名前が出たのは、昭和10年(1935年)のハワイの広告紙だそうです。このようにアロハシャツと戸田式開襟シャツの歴史を比べ見ると、戸田式開襟シャツは日系移民の人々を通して、ハワイのアロハシャツが正装となるためになんらかの影響を与えているように感じます。

 昭和16年(1941年)に、アロハシャツを正装として認めようという運動がハワイで起こります。公務員・法曹協会と商工会議所の職員のアロハシャツの着用容認を求めるその運動が否決されたものの、昭和22年(1947年)「裾をパンツから出してアロハシャツを着る権利」を軍政執行委員会と市長が承認、昭和33年(1958年)にはハワイ準州職員のアロハシャツ着用が許可されるという経過をたどり、今ではハワイの正装となっているようです。

 このように、ハワイの社会にアロハシャツが根付くには、ずいぶん長い時間を要したのですが、戸田式開襟シャツは数年の経過で日本の社会に根付いたもので、そこにも戸田博士の偉大さを垣間見ることができます。残念なことに、アロハシャツは安定したハワイの文化となりましたが、高度経済成長の中でエアコンが急速に普及した日本の社会では、夏の正装としての戸田式開襟シャツは中学生や高校生の夏の制服以外にその姿を見ることがなくなりました。

 

参考資料

  國民衛生 第30巻3-4号(1962年) 日本予防医学会

  第1号(2005年9月)資料探検隊 Vol.1 JICA海外移住資料館HP

            (http://www.jomm.jp/newsletter/tayori01_02.html)

  アロハシャツの歴史Presented by juhi Last update 2012/4/30

            (http://www.eonet.ne.jp/~aloha-kingdom/history_index.htm)

  アロハシャツの歴史Presented by Sanshin-boy Last update 2018/9/20

                                     (http://bccweb.bai.ne.jp/aloha_lover/index.htm) 

 

     2018年10月3日 訂正

 

 

 

館長ブログ記事一覧に戻る